1.はじめに

ハンセン病は、私たちが知る最も古い病気の一つです。宗教的および社会的なスティグマとしばしば関連付けられ、ハンセン病を患った人々は、その症状や診断でその後の人生に広範で長期的な影響を経験してきました。

この病気は、時代を通して、医療分野や一般の人々の間でさまざまな名前で知られてきました。ハンセン病は最も古くから知られている病気の一つですが、19世紀になるまで、皮膚に影響を与える他の病気と明確に区別されていませんでした。それまでの間、ハンセン病に罹患したと信じられていた多くの人々は、おそらく梅毒、皮膚癌、皮膚結核、および特定の形態の疥癬(かいせん)など他の病気にかかっていたと考えられます。

病気やその患者を表すために使用されていた複数の呼称は侮蔑的と見なされ、病気に対する医学的見解を伝統的なスティグマや神話から分離するためにその使用が禁止されました。例えば、以前一般的に使われていた「らい患者」という用語がそれにあたります。

「らい病」という用語は依然として判然たる医学的定義を持ち、多くの地域で使用されています。しかし、多くの国では、現在公式に「ハンセン病」と呼ばれています。これは、1873年にらい菌を特定したベルゲン出身の医師、ゲルハール・アルマウェル・ハンセンにちなんでいます。

ハンセン病について論ずる際には、用語の使い方に注意が必要です。適切な用語を使用することで、ハンセン病と診断された人々が今日も直面する社会的な問題を減少させることができます。現在、ハンセン病と診断された人を「らい患者」と呼ぶことは、非常に侮辱的だと考えられています。この病気は治療可能であり、患者数は世界的に著しく減少していますが、ハンセン病にかかった人々やその家族は依然として偏見や差別に直面しています。病気についての無知や時代遅れの認識とタブーがしばしば治療の障害となることがあります。そのため、今日のハンセン病は医学的な課題というよりもむしろ社会的な課題であると言えます。

この展示では、医療的および社会的な側面の両方を扱っており、聖ヨルゲン病院はこの病気の歴史の多くの面を明らかにしています。一方で、これらの建物は、かつての医療サービスの歴史や科学の進歩、公的な取り組みが、良くも悪くも他の国の病気との闘いのモデルとしてどのように役立ってきたかを示す重要な役目を果たしてもいます。同時に、これらの歴史的建造物は何千もの人々の運命を記念するモニュメントであり、多くの人々にとっては悔悛と熟思の場所となっています。

図1:ベルゲンでのハンセン病研究、特にゲルハ-ル・アルマウェル・ハンセンによるらい菌の発見は、1世紀以上にわたって国際的に知られています。1901年、世界中の同僚や友人によってハンセン博士の胸像が建立されました。この胸像はベルゲンの植物園に鎮座しています。

2. ハンセン病

ハンセン病は、らい菌(Mycobacterium leprae)によって引き起こされる慢性の感染症です。主に患者の口や鼻からの飛沫が他の人の呼吸器系に入ることによって感染が広がりますが、感染リスクは低いです。通常、未治療のハンセン病患者と密接で持続的に接触することによってのみ感染しますし、感染した人のごく一部だけが症状を発症します。病気が進行するには、細菌に加えていくつかの条件が必要です。栄養不良、特にタンパク質の欠乏が多くの場合、主要な要因です。遺伝的要因も影響しますが、多くの人が自然免疫を持っており、どのような状況下でもハンセン病を発症しないと考えられています。

症状と余命に関しては、発症者によって大きな違いがありますが、多くの場合、病気は長期に亘りゆっくりと進行します。潜伏期間は約1年から20年以上と様々ですが、一般に感染後3〜5年で最初の症状が現れることが多いです。ハンセン病は主に皮膚、上気道粘膜、眼および末梢神経に影響を与えます。現在では、異なる種類の抗生物質の組み合わせによってハンセン病は治癒可能ですが、未治療のまま放置した場合、病気の進行により様々な病変や機能障害が時間とともに発生する可能性があります。以前は、病気に伴う様々な合併症で死亡に至ることがありました。

病気の進行は、細菌の量や個々の患者の免疫反応など、さまざまな要因に依存します。症状は多様ですが、従来から主に2つの主要な病型、「らい腫型」と「類結核型」に区別されています。

らい腫型は、免疫系が著しく低下している人に発症し、多くの場合、皮膚に特徴的な結節が現れます。多くの患者は症状が活発でない期間も長く経験しますが、定期的に再発を繰り返し、容姿と健康が着実に悪化していきます。結節はしばしば顔や手に現れますが、内臓にも影響を及ぼすことがあります。気管、声帯、耳管に結節ができると、声がかすれ、呼吸困難や聴覚障害を引き起こすことがあります。

類結核型では、抹消神経系、特に皮膚の感覚神経が侵されます。これにより感覚の欠如、すなわち麻痺が引き起こされ、結果として手や足に火傷や切り傷、圧迫による怪我を負うリスクが高まります。頻繁な潰瘍と持続的な感染の結果、時間の経過とともに指やつま先の骨や軟骨が損傷したり、大きく壊疽することがあります。鼻と喉の軟骨が損傷すると、声がかすれ呼吸困難を引き起こすことがあります。身体の多くの反射神経や微細な運動機能も損傷し、特徴的な顔面麻痺や変形を引き起こします。多くの患者が目の感染症を発症し、徐々に失明していきます。

図1:聖ヨルゲン病院のらい腫型ハンセン病患者。1840年代、J L ロスティングによる水彩画『Atlas Colorié de Spedalskhed』。

図2:聖ヨルゲン病院の類結核型ハンセン病患者。1840年代、J L ロスティングによる水彩画『Atlas Colorié de Spedalskhed』。

展示1–2:ろう製模型標本:ドイツの医師、オスカー・ラサール氏(1849–1907)からベルゲンの同僚への贈り物。

3. 聖ヨルゲン病院~1700年以前

聖ヨルゲン病院は、ノルウェーで最も古い財団であり、スカンジナビアで最も古い病院施設の一つです。聖ヨルゲン病院について書かれた最古の文献は、15世紀初頭のハンザ同盟の2つの古文書です。 1411年には「ノンネセター(Nonneseter)にある病院」として言及され、1416年には「新しい病院」としての記述が確認できます。聖ヨルゲン病院という名前は1438年に初めて登場しました。

聖ヨルゲン病院は、ベルゲンのノンネセター修道院が設立し、宗教改革の時代に至るまで、その運営に携わってきたとされています。中世ヨーロッパの他の病院と同様に、この病院は市の中心部から離れた場所にありました。宗教改革の際には、すべての修道院の財産は国王に没収されました。1545年、聖ヨルゲン病院は王立財団となり、デンマーク・ノルウェー王クリスチャン3世(1503-1559)は、多くの修道院の財産を病院の財政基盤の一部として提供しました。それと同時に、聖ヨルゲン病院は、入院施設も備えた住民に開かれた総合病院としても位置づけられました。

1640年の大火により、ヴォーグスブンネン(Vågsbunnen)から聖ヨルゲン病院までの一帯が焼失しました。病院では「17人の生きている魂」が閉じ込められ、焼死しました。この大火の際に、中世から残っていた古い構造物も失われたと考えられています。1654年に書かれた病院の様子を伝える文書には、困難な時代が描写されています。その文書によると病院には多くの住人がいて、収入はわずかで、建物の状態は悪く、多額の負債を抱えていました。入所者の大半はハンセン病患者であったと考えられています。厳しい経済状況は、1700年頃まで運営全体に影響を及ぼしていました。

写真:「The hospital’s articles」、1654年

4. 新しい病院の形成-18世紀

1702年5月19日、ベルゲンはそれまでに経験したことのないような大規模で破壊的な火災に見舞われました。町の7/8が焼失し、聖ヨルゲン病院は再び廃墟と化しました。病院に住んでいた58人の入所者は、数ヶ月間、町の貧しい人々のもとに身を寄せていました。初冬には病院の新しい本館に移ることができましたが、この建物が完成したのは翌年のことでした。建て替えは急いで行われた形跡があり、新しい建物が不満足な解決策であることが判明するまでに時間はかかりませんでした。そのため1754年に取り壊され、現在の病棟が建てられることになりました。

18世紀に入ると入所者の数は急速に増えていきました。1702年には58人であった入所者数は、1745年には90人となり、その10年後には140人に増えていました。この年には新しい大きな本館も建設されて1年が経っていました。聖ヨルゲン病院はノルウェー最大の病院のひとつで、18世紀のベルゲンでは重要な施設となっていました。

図1:1754年に建てられた病院の建物は、当時のベルゲンで最大級のものでした。同時代のヨーロッパの他の建築物との共通点が多く、2階建てで大きな共有スペース、隣接した小さな居住者用の部屋がありました。

図2:ヨハン・リンドストローム(Johan Lindstrøm)とニルス・トヴェット(Nils Tvedt)の手による聖ヨルゲン病院の図面

図3:1740年代のベルゲンの鳥瞰図。病院の場所は図の中で13と表示されている。

展示:消防用バケツ、1750年代

5. 19世紀初頭の聖ヨルゲン病院

聖ヨルゲン病院は長年にわたり、非常に厳しい資金状況の中で、厳しい経営を強いられていました。収入は主に、16世紀に与えられた修道院からの財産に依存していましたが、所有していた農場から得られる収益は少なく、財政的に厳しい状況が続きました。運営予算の大部分を占めていた町民からの寄付も、不況になると急速に減っていきました。1654年に導入されたコスト削減策の一つは、補助金を直接入所者に支払い、入所者自らが自分の入院代・滞在費を負担するというものでした。しかし、このような節約をしても、行政側の支払いは数年も遅れたことがありました。

1816年、聖ヨルゲン病院の牧師ヨハン・エルンスト・ウェルヘヴン(Johan Ernst Welhaven 、1775-1828)は、聖ヨルゲン病院の入所者の生活状況について報告書を発表しました。彼は批判の的であった病院運営についても記述しています。入所者は看護すら受けることができず、食費もない状態でした。ウェルヘヴンは、この病院を「生者の墓場」と表現しています。

ウェルヘヴンの報告書は、19世紀のハンセン病に対する社会の関心を高めるきっかけとなりました。報告書が発表された翌年、ベルゲンの町とその周辺の州が出資して、病院に専門の医師のポジションを設けることを決定しました。病院職員の数も増え、住民には無料で薬が配られることになりました。治療の進歩はわずかなものでしたが、これらの変化は病院の歴史の中で最も重要なものの一つでした。ナポレオン戦争を経て自治権を獲得したばかりのノルウェーは、1817年の判決により、ハンセン病患者のための活動が公的な活動でもあること、そして公的機関が聖ヨルゲン病院の運営とハンセン病治療の研究開発に強い意欲を持っていることを示しました。

図1:1816年の病院牧師ウェルヘヴンの報告書には、聖ヨルゲン病院の劣悪な環境と、多くの不幸な入所者の様子が記されている。例えば、ヨハン・トレフダッター(Johanne Tollefsdatter)は1780年から入院していました

図2:アンナ・スヴェンスダッター(Anna Svensdatter)は、看護が行き届かずに苦しんでいた一人です。ウェルヘヴンは、彼女の目が腫れ上がり、灰色のぬるぬるした液体で満たされていると表現しています。

6. ハンセン病対策への公的関与とその背景-19世紀

1832年、軍医のヨハン・ヨルト(Johan Hjort、1798-1873)が、ノルウェーを巡回しました。その目的は、ノルウェーにおける一般的な医療水準と沿岸部の医療機関について、特にハンセン病に重点を置いた報告書を作成することでした。ヨルトは1833年に包括的な報告書を発表しましたが、その中で聖ヨルゲン病院には入浴施設が全くないこと、不衛生な状況であることなど、病院としてあらゆる点において悲劇的に不足していることを指摘しました。またヨルトが病院を訪れたとき、そこには少数の健康な入所者がいましたが、そのほとんどが入院費用を払える資力のある高齢者でした。またヨルトによると、健康な人と病気の人、男性も女性も雑居している状態で、雰囲気も悪かったと書かれています。

言葉にならないほど複雑な状況を指摘したのは、ヨルトだけではありませんでした。1836年には初の全国調査が行われました。その結果、1830年代の終わり頃、ノルウェー議会(Stortinget)は、ハンセン病患者のために新しい国立病院を建設するという最初の決議を採択しました。

写真1:1930年代の病院の2つの厨房のうちの1つ。100年前、軍医ヨルトが行った調査の際にはこれらの部屋は、「かなりの混乱と不潔さ」があると報告しました。特に汚かったのは、ニシンなどの魚を洗っていたためで、ヨルトによると、これらの魚は住民にとって「最も一般的な食べ物」だったそうです。

写真2:1930年代に撮影された本館病棟。ヨルトはこの部屋を「大きな仕事部屋」と呼んでいました。男性入所者の仕事は、まず靴作り、マッチ作り、その他の木工品作りで、これらは自分で町に行って売ることができたという。

展示1:1778年に作られた病院の施し物の回収箱

展示2-3:瀉血に使われたノミとバネのランセット(針)

7. ノルウェーのハンセン病研究-184050年代

1839年、ハンセン病の対策や在外研究を支援するための奨学金給付が始まりました。この奨学金は医師カール・ウィルヘルム・ボエック(Carl Wilhelm Boeck、1808-1875)に与えられ、ボエックは1840年に聖ヨルゲン病院を訪問し、そこでダニエル・コーネリウス・ダニエルセン(Daniel Cornelius Danielssen、1815-1894)と正式に協力関係を結びました。ダニエルセンは新たに任命された陸軍軍医でしたが、1839年の秋から聖ヨルゲン病院でハンセン病患者の研究を行っていました。ボエックの提案によりダニエルセンは1841年1月に聖ヨルゲンの病院医師に任命され、その数週間後には国からの給料を受け取り、ハンセン病の研究にすべての時間を割くことができるようになりました。このダニエルセンとボエックの協力関係は、その後のハンセン病に関する国際的な研究の基盤となりました。

後にボエックが発表した報告書では、ハンセン病患者のための施設の建設を急ぐべきとの提言がなされています。1845年、ノルウェー議会はベルゲンにルンゲガード(Lungegaards)病院を建設するための資金を提供しました。この病院は、初期段階の患者や軽度の患者を対象とした治療センターとなりました。また研究成果を公表し、その費用を公費で賄うことが定められました。

図1:1839年から、若きダニエル・コーネリウス・ダニエルセン(1815-1894)は、聖ヨルゲンの住民の研究に深く携わっていた

図2:ノルウェーでの研究を通じて、カール・ウィルヘルム・ボエック(1808-1875)はハンセン病に関する公的研究の重要な基盤を形成した

8. ハンセン病について

1847年、ダニエルセンとボエックが著した『ハンセン病について(Om Spedalskhed)』(ハンセン病について)が出版されました。この本には、ベルゲンの画家ヨハン・ルードヴィッヒ・ロスティング(Johan Ludvig Losting、1810~1876)が描いた「Atlas Colorié de Spedalskhed」が付録として付いていました。これには、当時の聖ヨルゲン病院での典型的な様子が描かれています。

「ハンセン病について」は、初めての近代的な症候学の書籍でした。それまではハンセン病と他の皮膚疾患とを必ずしも明確に分けた説明がされてきませんでしたが、1847年に出版されたこの本では、初めてハンセン病に特定した診断が紹介されています。またダニエルセンとボエックは、歴史的な視点から徹底した症例の記述を行い、今日までハンセン病研究の中心的な要因となっているアプローチを紹介しました。

その中心となるのが、ハンセン病の原因をめぐる議論です。ダニエルセンとボエックは、ハンセン病を一つの独立した特定の疾病として分類することに多くのエネルギーを注ぎましたが、当時、栄養状態が悪く不衛生なノルウェーの農民が罹患する一般的な病気という見方は一般的でした。しかし、ハンセン病の本当の原因については、まだ多くの不明な点が残っていました。ダニエルセンは、聖ヨルゲンの患者の多くが、親族にハンセン病患者がいることを確認しました。さらにノルウェーの西部には、ハンセン病が何世代にもわたって続いている、いわゆる「ハンセン病家系」がいくつかあることも突き止めました。そして、この病気が伝染病であることを示すものはほとんどありませんでした。健康な看護師や聖ヨルゲンの他の住人も感染しているようには見えませんでした。ダニエルセンの結論は、ハンセン病は遺伝性の血液疾患であるというものでした。ただ一方で、ダニエルセンはハンセン病は自堕落な生活をしていても感染する可能性はあるが、主に出産によって親から子へ感染するとも主張しました。

図1:患者の手と舌(それぞれ別の人)

図2: a) 卵巣と卵管のある子、 b) 卵管の一部が開いている状態

図3:眼球に発症した白斑性ハンセン病および結節性ハンセン病の症状の進行ステージ

図4:聖ヨルゲン病院の12歳の少年。ヨハン・ルードヴィッヒ・ロスティングによる「Atlas Colorié de Spedalskhed」のイラスト、1840年代

展示1:切断に使われたノコギリや手術道具、19世紀半ば

9. 国立ハンセン病施設

遺伝性に関する議論は、ノルウェーで長年行われてきたハンセン病に関する研究に影響を与えました。若いハンセン病患者が家庭を持ち、ハンセン病を蔓延させる前に、できるだけ多くの患者を隔離することが目的とされていましたが、さらなる研究の必要性もはっきりと認識されていました。1845年、ノルウェー議会はルンゲガード病院建設のための資金を提供し、1849年10月1日に最初の患者が入院しました。ダニエルセンは当時、ノルウェーの歴史上初めて特定の疾病のために建てられた病院の主任医師でした。                                                                                                                          

その後、新しい専門病院が次々と設立されました。モルデ市(Molde)近郊のレックネス(Reknes)病院は18世紀初頭から存在していましたが、現在は近代的なハンセン病病院として整備されています。1861年にはトロンハイムの近くに新しいライトジェルデット(Reitgjerdet)病院が開院しました。しかし19世紀の新しいハンセン病施設の代表格は、1857年に開設されたベルゲンの「らい患者のための看護財団(Pleiestiftelsen for Spedalske No.1)でありました。

19世紀半ば、ベルゲンには3つのハンセン病施設があり、ヨーロッパで最も多くのハンセン病患者が集まっていたと言われています。このように、国は多額の補助金と卓越した施設環境を提供し、研究のための基盤を整えていました。その結果、数十年後には目をみはるような成果を上げることになったのです。

写真1:1849年に完成したベルゲンのルンゲガード病院の病棟。この病院は、初期の軽いハンセン病患者のための研究病院であった。療養所として知られていたため、多くの患者がこの病院を希望しました。しかし、ほとんどの人にとって、この病院への入院は長年にわたる隔離生活の始まりだったのです

写真2:トロンハイム近郊のライトゲルデット(Reitgjerdet)は、1861年にハンセン病患者のための国立の看護財団として設立された。

写真3:ダニエル・コーネリアス・ダニエルセンは、ハンセン病施策の実施を政府に積極的に働きかけをした人物でした。ハンセン病が政府の優先事項となったのは、彼の時代でした。ダニエルセンが提唱した遺伝理論は、19世紀半ばの新しいハンセン病施設の設立と運営の両方に影響を与えました。

10. らい患者のための看護財団

1857年に設立された「らい患者のための看護財団(Pleiestiftelsen for Spedalske No.1)」は、7床の部屋が40室あり、計280人の患者を収容できるノルウェー最大の病院であり、最大の木造建築物の一つでした。この病院は、医療に携わる多くの人々にとって見本となっており、建築の図面までも、国際的な出版物に転載されました。

「Pleiestiftelsen」という言葉は、「看護財団」という意味で、施設で一生を過ごす以外に選択肢のない難病患者のための施設でした。この施設はノルウェー西部のハンセン病患者の間では評判が悪く、規律は厳しく、休暇もほとんど取れませんでした。作業場で仕事をしていない患者は、長い間、部屋に閉じこめられていました。状況は少しずつ改善されていきましたが、自分の意思に反して強制的に入院させられたという評判は、20世紀に入っても長く続きました。

図2:らい患者のための看護財団の内規

図3:らい患者のための看護財団

展示1:らい患者のための看護財団の看板

上から下へ、作業室、患者たち、図書館、主任医師の待合室

展示2:聖ヨルゲン病院の軟膏入れ、1873年

らい患者のための看護財団の薬瓶

11. ハンセン病担当主任医務官とノルウェーのハンセン病登録簿

1854年、ノルウェー政府は、新たにハンセン病に関する政府の活動を監視し、調整する役割を担う役職として、ハンセン病担当主任医務官(Overlægen for den Spedalske Sygdom)を設置しました。初代の主任医務官として、オーヴ・フーイ(Ove G. Høegh、1814-1863)が就き、すぐにハンセン病患者の登録に着手し、1856年にはノルウェー・ハンセン病登録簿(Det Norske Lepraregisteret)の運用が正式に始まりました。その目的は、第一にハンセン病問題の全容を記録すること、第二に疫学的分析によって病気の原因を解明すること、第三にハンセン病に関する公的な活動を継続的に評価するための基礎を築くことにありました。

ハンセン病登録簿の作成に伴い、すべての地方医師は、その地区のすべてのハンセン病患者を登録するよう命じられました。また必要に応じて地元の牧師がこの作業を手伝うことになっていました。登録内容は、氏名、居住地、出生地、性別、年齢、発病日、配偶者や子供の健康状態などでした。

現地での登録用紙は、年度末に主任医務官に送られていました。主任医務官は、その用紙を使って中央で管理していた登録簿を更新・補完していました。医務官の主な仕事の一つに、統計資料の作成があります。「ノルウェーのハンセン病患者目録」は毎年発行され、国のハンセン病対策の重要な指針となっていました。登録簿の運用は費用はかかる取り組みでしたが、先駆的でありました。ハンセン病患者登録は、世界初の全国規模の患者登録であり、他国のモデルとなりました。

図1-3:主任医務官の文書庫に所蔵されていた地方と中央の登録簿

図4:「ノルウェーのハンセン病患者目録」

展示:ろう製模型標本

上から下へ。壊死し、すべての指を失った手、類結核型ハンセン病に典型的な硬直した手、らい腫型ハンセン病患者の手、ドイツ人医師オスカー・ラッサール(Oscar Lassar)からの贈り物

12. 図版:ハンセン病登録簿に記入された8,231人の患者名

13. アルマウェル・ハンセンとらい菌の発見

1868年、若きゲルハール・ヘンリック・アルマウェル・ハンセン(Gerhard Henrik Armauer Hansen 1841-1912)は、らい患者のための看護財団の医師として、またルンゲガード病院の医師助手として働いていました。彼はダニエルセンとの初対面で、この病気が遺伝性のものであるとは思わず、感染性のものであると信じていると述べたと言われています。研究所での初期の頃、彼はいくつかの論文を発表し、ダニエルセンの遺伝理論に反論しました。                                                                      

19世紀後半は、さまざまな分野で科学的に大きな進歩を遂げた時代である。現代の専門的な医学が確立されたのもこの時代である。アルマウェル・ハンセンは、細菌学の草創期に研究者としてのキャリアをスタートさせ、1873年には感染源の解明に成功、1874年には後にハンセンにとって最も重要な論文を発表した。ハンセンはこの88ページに及ぶ論文の中で、細菌学的な主張とらい菌の発見について分析をしています。続いて、疫学的な分析やノルウェーのハンセン病登録簿の例から、ハンセン病は患者の隔離が徹底して行われていた地域で最も流行していることを明らかにし、細菌学的研究と疫学的分析の両面を分析し、感染因子説を提唱しました。これは画期的なことでした。アルマウェル・ハンセンは、この慢性疾患の原因が細菌であることを初めて学術的に示したのです。

写真1:ゲルハール・アルマウェル・ハンセン

写真2:らい菌。

写真3:ハンセンがらい菌を発見したのは、細菌学的な研究とノルウェーのハンセン病登録簿の分析に基づいている。

14. エビデンスを求めて

アルマウェル・ハンセンは、発見を裏付ける証拠が不足していることを自覚していました。それゆえに、1870年代のハンセンの活動は、確実な証拠を求め、イヌ、ウサギ、ネコ、サル、魚などの実験動物に感染させようとしました。またダニエルセンは1850年代から60年代にかけて、ルンゲガード病院で自らを含む、助手、病棟のシスター、3人の看護師、1人の男性助手にハンセン病患者の血液を注射しましたが、感染は証明できませんでした。1879年11月、ハンセンはらい患者のための看護財団の患者を対象に実験を行いました。その目的は、類結核型ハンセン病を患っていたカリ・ニールスダッター(Kari Nielsdatter)の眼球内にハンセン病の結節ができるかどうかを確かめることでした。        

ところが、ニールスダッターは病院付きの牧師の助けを借りて、アルマウェル・ハンセンの実験を世間に暴露しました。その結果、ハンセンは裁判にかけられ、1880年5月末付で看護財団の主治医としての地位を辞するよう命じられました。ただ、他の病院でのポジションには影響はありませんでした。ハンセンに対する裁判は、ノルウェーの裁判所に持ち込まれた初めての患者の権利に関する事件でした。

ハンセンは1912年に亡くなるまで、ハンセン病担当医としてノルウェーのハンセン病対策を主導しました。ハンセンは、20世紀の国際的なハンセン病研究において、迷信に基づくハンセン病差別に立ち向かう医学的合理性の象徴でした。現在ではノルウェー国外で最も知られたノルウェー人といえるでしょう。

図1:ハンセンの肖像が描かれた切手は、ラオスをはじめとする24カ国で発行されています。ハンセンは、現代のハンセン病研究にとって、迷信に基づく差別と結びついている病気に対する合理性と人間性の象徴と言えます。

図2:ハンセンは1912年に亡くなるまでハンセン病担当主任医務官を務めた。1912年2月12日、ノルウェー沿岸の視察航海中に70歳の若さで亡くなりました。

展示: アルマウェル・ハンセンが使用していた顕微鏡用の調剤

15. ハンセン病に関するノルウェーの法律

らい菌の発見がもたらした最も重要な結果のひとつが、ハンセン病に関する新しい法律の制定です。1875年、ハンセンはハンセン病担当主任医務官に就任しました。ハンセンはハンセン病担当医として、自らの感染理論に基づいて、1877年にハンセン病と診断された人々が、地元の農家に寄宿することを禁止する法律が制定されました。これにより、多くのハンセン病患者が施設での生活を余儀なくされました。さらに、ハンセン病患者が使用する衣服やシーツにも厳しい規制が加えられました。新しい法律の条文によると、これらは地域の保健委員会の指示に従って洗浄・消毒されるまで、他の人が使用してはいけないことになっていました。この条文に違反した場合は、罰金が科せられたのです。

ハンセンが1885年にハンセン病に関する新しい厳格な法律を導入することに成功したことで、数年に及ぶ議論が行われました。この法律は強制的な入院を可能にしましたが、ハンセンの同僚の中には非人間的だと違和感を覚える人もいました。強制入院の法律はその後あまり適用されませんでしたが、アルマウェル・ハンセンは自宅に隔離された患者を見守っていました。1885年の法律は、その後の他国の同様の法律のモデルとなっています。

図1:1856年と1890年のノルウェーにおけるハンセン病の分布図

16. 1885年に制定されたハンセン病法

ハンセン病患者の隔離および公的看護・治療施設等への入院に関する法律

神の恩寵によってノルウェーとスウェーデンの王であり、ヴェンド人とゴート人の王である我らオスカーの御名の下、

我々は、本年4月25日付のノルウェー議会の決定により、以下を周知する:

第1条 ハンセン病と診断された者は地元の農家に寄宿してはならない。

第2条 貧困扶助を受けているハンセン病患者は、これが一時的なものでない限り、または生計の一部に限定されない限り(…)、公的看護施設または治療施設に収容されるものとする。このような貧困者が上記の施設に入所できない場合は、特別な居住施設に入所させるか、または衛生委員会が認める方法で世話をしなければならない。
貧困救済が一時的なものに過ぎないか、またはハンセン病患者の生計のごく一部を占めるに過ぎないかについて争いがある場合には、県知事が最終的な効力をもって決定する。
ハンセン病患者を扶養する場合、貧民委員会は、一緒にいることを望む配偶者を引き離すべきではないことを考慮すべきである。教区の牧師と地区の医師の意見を聞いた後、県知事が承認すれば、たとえそのような別居を伴うものであっても、貧民委員会の決定は有効である。

第3条 衛生委員会は、ハンセン病と診断されたその他の者に対し、家族及び周囲から十分に隔離された生活を送ることを命ずることができる。ただし、これは配偶者同士には適用されない。委員会の見解で、度重なる命令が遵守されない場合、当該者は、公的な看護施設または治療施設への入所を受け入れる義務を負う。このような入所が配偶者との別居につながる場合、衛生委員会の決定は、教区の牧師の意見を聞いた後、県知事の承認を得るものとする。

第4条 第3条に基づいて公共の看護または治療施設にハンセン病患者を収容する費用は、該当する県または都市自治体が負担する。ただし、施設の管理者の許可なくその施設を退所したハンセン病患者の再収容費用は、必要な資金を所持する場合、患者自身が負担するものとする。

第5条 本法に基づく施設への輸送は、必要に応じて警察によって行われるものとする。

第6条 ハンセン病患者が使用した部屋、衣類、寝具などは、地元の衛生委員会の要件に従って清掃されるまで、他の者に使用させたり譲渡したりしてはならない。この規定の違反は警察によって起訴され、罰金に処せられ、市財政に納付される。

第7条 本法に基づく出張を行う医師は、旅費および滞在費用の手当を受ける権利がある。出張手当は国によって支払われ、滞在手当は該当する県または自治体が負担するものとする。

第8条 1877年5月26日の「ハンセン病患者の救済等に関する法律」は、本法によって廃止される。

我々はこの決定を、我々の手と王国の印章のもとに、法律として採択し確認した。

1885年6月6日、ローゼンダール城

17. 20世紀のノルウェーのハンセン病

アマルウェル・ハンセンが亡くなった1912年には、ノルウェーのハンセン病は急速に終息していった時代でした。1900年以降、新たな患者はほとんど発生しておらず、古い国立ハンセン病病院のいくつかは結核病院や療養所に変わっていました。しかし、患者の多くは長生きしました。1957年には、らい患者のための看護財団は、国立リハビリテーション研究所(Statens Attføringsinstitutt)に改組され、1973年に最後の患者が亡くなるまで、ハンセン病部門が独立して運営されていました。

20世紀に入ってからも、ノルウェーの専門家はハンセン病に関する国際的な研究に重要な貢献をしています。1912年にハンセンが亡くなった後、ハンセン病担当主任医務官のポストを引き継いだハンス・ペッター・リー(Hans Petter Lie、1861~1945)は、ハンセン病の感染症やノルウェーのハンセン病の歴史に関する著作を著しました。また近年、ノルウェー・ハンセン病患者登録データベースはデジタル化され、歴史疫学的分析の基礎となっています。

図1:1909年にベルゲンで開催された国際らい会議は、170名の参加者を得ました。この規模 

は、当時北欧諸国で開催された中では最大の国際会議でした。前列には白ひげのハンセンが見えます。その右隣にはハンス・ペッター・リーが座っています

18. 最後の患者

聖ヨルゲン病院では、1896年10月31日に最後の患者が入院し、50年の間にこの小さなコミュニティは消滅しました。1900年には43人、1920年には14人が生存しており、1930年には5人にまで減少しました。1946年まで生存していた女性患者は2人。一人はベルゲン郊外のフィエル(Fjell))出身で、1891年に入院しました。もう一人はソグン(Sogn)地区Eivindvik村の出身で、1895年からこの病院に入院していました。二人は、聖ヨルゲンで50年以上過ごした後、数ヶ月のうちに82歳と78歳で亡くなりました。500年の歴史を持つ聖ヨルゲン病院には、今は誰もいません。

写真1:聖ヨルゲン病院の病室、1935年頃

写真2:病院の2つのキッチンのうちの1つ、1930年代

写真3:聖ヨルゲン教会。1946年に最後の患者が亡くなり、聖ヨルゲン病院は教区としての役割を終えました

A〜Lの部屋にあるほとんどの文章は、古い文献からの引用または抜粋です。これらの文章は、執筆当時の理解や認識を反映しているため、事実情報や使用されている用語が現代の知識や重視する点と異なる場合があります。

A

図Q:Nilla Josephsdotter(23歳、Førde教区出身)。重度に進行したハンセン病のこの少女は、ハンセン病の両親から生まれたわけではありませんが、祖母の母親がハンセン病で大いに苦しんでいます。この少女は、1811年に亡くなった妹とともに入院しました。もう一人の姉は結婚して5人の小さな子供たちと田舎に住んでいますが、最近になってハンセン病の症状が出始めたそうです。胸や空気管に溜まった粘液が原因で、ひどい鼻づまりとひどい咳が出ます。特に患者Qの場合はその傾向が顕著で、恐ろしい咳による緊張感の中で、窒息死を恐れることもしばしばです。

“この病院の運営にはさらに重大な欠陥があります。それは、人々が全く分類されていない点にあります。病人と健康な人、男と女、大人と子供が雑居しているのです。このような分類の欠如は、明らかに多くの無秩序を引き起こし、乱行を防ぐことができません。病院の女性が妊娠することは、決して珍しいことではありません“

            ヨハン・ヨルト博士、1833年

B

13歳の少年で、結節はかなり進行しており、数か所で重なり合っています。多くの結節は軟化も始まっており、眉毛は脱落しています。6年生の時にハンセン病に感染しました。

「結節性ハンセン病は次のように進行する。手足のだるさ、こわばり(しばらく症状の進行は止まりますが、再発したときには重篤化する)、無気力、眠気(病気が進行すると、無性に眠たくなったり、会話の最中、仕事中、食事中に眠ってしまうほど)に襲われる。徐々に身体が重たく感じるようになり、手足を動かすたびに鉛のような重さの感覚に悩まされ、仕事をする気が失せ、心も滅入り、今まで楽しんでいたことが重荷になってしまうのである」

            ダニエル・C・ダニエルセン博士、1847年

C

リトル・ベルゲンは、ヨーロッパで最も趣きがあり、愉しみにあふれている。ソグネ・フィヨルドの間に位置するこの町は、ノルウェーを訪れる英国人観光客にとっても、人気の観光地になっている。町は高い丘に囲まれており、その斜面を通りや道路が走っている。丘のふもとは海に繋がり、鮮やかな緑の向こうには漁船の帆が見える。ノルウェー、何と壮大で美しいのだろうか。爽やかな風が吹き、巨大な運河が走り、氷河は遥かに広がり、フィヨルドは150キロにもわたり内陸を走っている。ノルウェーは今や、健康をもたらし、美しく、ハンセン病のような恐ろしい病気から最も遠い国として、ヨーロッパの故郷とも言える場所になっている。

            イギリスのジャーナリスト、エリザベス・ガーネットによる文章、1889年

写真:マティア・メヴィクは1866年にトロンハイム近くのフロヤ島で生まれました。1913年、47歳のときにベルゲンのプレイエスティフテレンに入院しましたが、夫の死から1か月後の1919年6月に退院しました。1920年7月1日に再び入院し、1941年12月に75歳で亡くなるまでそこで過ごしました。

D

図LとM:アスケボルド(Askevold)教区のNils Knutssonさん(27歳)とIngeborg Knuts Dotterさん(12歳)。この二人の兄弟は両親が健在ですが、子供の病気の原因を全く説明できないでいます。12歳の少女は、2年前からハンセン病を患っており、その症状はますます目立つようになってきました。右目の上に大きな腫れ物があるほか、下唇にはニワトリの蹴爪に似た角のような突起物ができています。痛みもひどく、かわいそうです。

「治療によって、ほとんどの患者は様々な手芸品を作ることができるようになった。この疾病は徐々に体力を奪い、耐え難い苦痛をもたらすので、治療前にはこのような仕事は全くできなかっただろう。女たちは亜麻、糸、麻、羊毛を紡ぎ、縫い物、編み物、毛糸のリボンを織り、男たちは長靴、農家の靴、マッチ、靴釘、皿、バケツ、農具、魚やニシン用の網などを作っていた」

            病院付きの牧師、ヨハン・エルンスト・ウェルヘヴン、1816年

E

図K:ハマー(Hammer)教区のヨハン・ヤコブセン(Johan Jacobsen、55歳)。今では指がほとんど動きません。28歳の時に左手の親指に針で刺されたような痛みを感じ、その後徐々に手足が不自由になっていきました。その様子はのろのろとした歩き方からも分かりますが、目が赤いことを除けば、顔にも手にもハンセン病の症状は見られません。ハンセン病による身体機能への影響ははっきりしているのに、体に腫れ物がない人もいます。このような人は、他の病気の人と同じように、普通はすぐに眉毛が抜け落ちますし、手足や関節は独特のしびれを感じます。また、足の痛みも強いです。

「医師の最善の意志、洞察力、努力をもってしても、生ける死者を癒すことは不可能である。なぜなら、患者は発症してから数年後に来院し、そのときにはハンセン病ははるかに進行し、なす術もない。できることは、患者を町で死なせて埋葬してあげるか、患者が裕福であるならば、田舎に隠れて、回復を祈る彼の家族や友人のもとで過ごすこともできるが、いずれにしても悲嘆のなかでの埋葬が待っている。不治の病であるハンセン病患者は常に不幸である。ハンセン病になってしまえば、いかなる状態であっても幸福は逃げていき、人権と自由のほとんどを放棄しなければならないだろう。人生がすべてそうであるように、避けられない確実な死という事実だけが、慰めと癒やしなのである。」

            病院付きの牧師、ヨハン・エルンスト・ウェルヘヴン、1816年

F

図X:Magdalena Elerts Dotter、17歳、ベルゲン出身。この子はフランス人の船乗りが産んだと言われている私生児で、この町の貧しい里親に育てられました。この子の父親は性病を患っていたとも言われていました。しかしながら、そのことがハンセン病の原因となったということは考えられません。貧民救済委員会は、この子に町民からの食事を与えることを決定しましたが、5年前から顔や足にハンセン病の症状が出始めたため、病院に連れて行かれ、他の患者と同じように、くびきの痛みに耐えながら毎日ため息をついています。

「寝たきりでない患者全員が毎日過ごす仕事部屋は、入所者の数に比べて狭すぎるし、部屋の端に窓がひとつしかないため、十分な換気ができない。寝室はさらに不健康で、わずか336立方フィートの密閉された空間に2人が寝ており、衣服だけでなく、食べ物、特に塩漬けの魚やそれに類する食品も置いておかなければならない。そのため、部屋を閉め切ると、常に強烈な悪臭が漂っている。」

                ヨハン・ヨルト医師(軍医)、1833年

G

類結核型ハンセン病を患う38歳の男性。

「誰もがハンセン病患者と同じ屋根の下にいたいとは思わず、一緒に食事をしたいとも思わず、その他の方法で付き合いたいとも思わない。そのため、ハンセン病患者は家族から疎まれ、孤立した避難所を探さなければならず、そこでは自分しか頼れず、最も厳しい苦悩を味わうことになる。湿った土間や屋根裏、牛小屋などで、何の世話もされず、何の慰めもなく、悲惨な日々を過ごさなければならない。その悲惨な人生に死が訪れるか、慈悲の太陽が昇れば聖ヨルゲン病院に入院できます。濡れて凍えた状態で、基本的な生活必需品も持たず、何ヶ月も体から離れていないボロ布をまとって、ここにやってくることが多い。汚くて臭くて近寄るのが嫌になるほどで、体には手入れがされていないために壊疽やウジ虫がたかった傷がたくさん見られる」

            ダニエル・C・ダニエルセン博士、病院の医師 1843年    

H

28歳の女性。結節が結合し、厚い灰褐色のかさぶたで覆われ、その高さは5センチほどにもなることがある。このかさぶたを除去すると、潰瘍状になった結節が露わになる。表面にも結節の深いところにも、生きたダニが何百万匹もいる(ヒゼンダニと思われる)。かさぶたは、これらの生物の死骸だけで構成されている。かさぶたができていない結節は、残った健康な皮膚と同じように、汚れた灰褐色をしている。

「1842年に死亡した21人のうち16人には検死が行われたが、残りの5人については、自分から拒否した者もいれば、家族から抗議があった者もいた。検死にあたっては、決められた手順に基づいて症例報告がなされた。6つの病理サンプルはアルコール保存されているが、検死で異常が見つかったその他の病理サンプルは、保存に適していなかったり、研究目的で手元に置いておくことができないことが分かった。検死にあたっては、患者自身の要望により、常に別の患者が立ち会うことにもなっていた」

            ダニエル・C・ダニエルセン博士(病院医師)1843年

I

14歳の少女。皮膚に見られる斑点は表面からやや盛り上がっており、白っぽくなっていて、指で押しても消えないようになっている。毛細血管網には多量の血液が付着している。小さな結節があちこちにあり、その色は斑点よりもずっと薄い。眉毛も抜けてきています。

「いったんハンセン病が家族を襲うと、それは四方八方に広がり、どの家族も安心していられないような恐ろしい方法で広がっていきます。しかし、それは単なる静けさであり、憎むべき敵が新たな力を得て目を覚まし、3世代目、4世代目と容赦なく攻撃を仕掛けてくる冬の眠りに過ぎません。この遺伝的特性はハンセン病の本質的な原因であり、他のどんな原因よりも恐ろしいものであると考えなければなりません。なぜならば、ハンセン病はある家族の中に気づかれずに潜り込んでくるかもしれませんが、決してその家族から離れることはありません。

            ダニエル・C・ダニエルセン博士、病院の医師 1854年

J

ハウグ(Haug)に住むエリック・ハンセン。妻に先立たれた父親は、ひとり農業を営んでいる。そのためエリックは父親のために働いている。年齢は30歳。母親は44歳のときに子宮の病気で死亡。父親は65歳でハンセン病ではありません。彼らの住まいは非常に健康的で、ノルド・フィヨルドの先端の崖の上にあり、フィヨルドの高さから5~7メートルも離れていない乾いた地面の上にあります。寒さにひどくさらされたこともなければ、酸っぱいニシンなどの腐ったものを食べたこともない。またハンセン病患者が身につけた服なども着たことがありません。

エリックは病気になって、見た目が悪くなり、反抗的になりました。個人的にはベルゲンの病院に入院したいと思っているが、父親は、あんなにいい子にしている息子と離れ離れになることを考えて泣いていた。

ノルウェーでハンセン病を研究したフレドリック・エクルンド(Fredrik Eklund)博士、1879年

写真:ナウストダル出身のヤコブ・ヘンドリクセン・フリボルグ(1856年–1885年)の手。彼は15歳のとき、1871年12月31日にベルゲンのプレイエスティフテレンに入院し、29歳で亡くなるまでそこで過ごしました。患者記録には、1876年夏と1878年夏に約2週間ずつ帰省したことが記されています。

K

聖ヨルゲン、1876年5月10日

神が私たちを引き裂いたため、もはやお互いに話しをすることができなくなりました。なので、このような状況で、私がどのように過ごしているかを、書いて伝えようと思います。今の状況を恨んではいけないと思っています。ただお姉さん、不平を言うのは簡単です。もし神が私たちの目を開かせてくださるなら、自分の心の状態に不満を持つことになる理由など簡単に見つかるでしょう。そして、悪魔と私たちの罪がいかに私たちを苦しめているかを見ることになるでしょう……….

聖ヨルゲン病院の患者からの途中まで書かれた手紙、1876年

写真:ヴォス教区出身のオレ・オルセン・グローブ(1863年–1885年)。彼は16歳のとき、1880年4月21日にベルゲンのプレイエスティフテレンに入院しました。同じ日に、19歳のマルタ・オルスダッター・グローブも患者として登録されました。彼女が彼の妹であったと推測されます。オレ・オルセン・グローブは施設で5年間過ごした後、1885年に亡くなりましたが、マルタはすでに1881年に亡くなっていました。

L

子供の頃の夢を見る
幸せな時間を過ごしたことを…
生きるのが楽しくて仕方がなかった
しかし、幸運はすぐに彼女の顔を変え
悲しみが喜びに変わりました
私と多くの人々に
このような運命が待ち受けていました

私はまだ15歳になっていませんでした
私の心には数え切れないほどの喜びがありました
しかし、それらはすべて断ち切られました
痛みが私を襲い
骨と心に痛みが走りました
私に課せられた重荷に耐えるのは
この重荷を背負うのは大変でした

父のために神が遣わした
彼の不幸は今、終わりを告げました
彼の地上での日々は終わった
4人の子供たちが墓の周りに立ち
静かな顔で勇ましく見守っていました
父の疲れた骨が地上の安息の地に置かれるのを
見守っていました

私たちはお互いに別れなければなりません
母の心の中では明らかだったから
私が重荷になっていたからです
長い時間をかけて母は見守ってきました
しばしば弱くなるまで泣いていました
私と他の試練のために
主よ、あなたが一番よくご存知のように

ここにある他の病気のために
賢い医師が登場します。
病気を理解している
病人は病院に運ばれ
彼らの窮状に治療を施す
こうして彼らの病気は和らげられ
傷はすべて癒されます

私たち、らい病患者は医者に診てもらうことができない。
ここにいて、待って、心配しなければなりません。
私たちの時間が尽きるまで
ペテロが牢獄から脱出したのは
神の恵みを待っていたからです
神よ、痛みで手足を縛っている鎖を今解き放ってください
私たちの手足を痛みで縛っている鎖を今すぐに解いてください

時々、私はそっと歩き回る
夕方になると静かな家の中をそっと歩いていると
悲しい音が聞こえてきます
ある者は “災い転じて福となす “と嘆き叫び
もう一人の人はため息をついて
忍び足でベッドに向かわなければならないと嘆く
神よ、教えてください、いつまでですか?

ある者は 痛い痛いと言っている
ある者は口がきけず、もう何も話さない。
三人目は松葉杖をついて歩く
4人目は日の光を浴びることができません
五人目は指を全部失った
確かに今、明らかになった
私たちがここで何をしなければならないのか

ここ聖ジョージ病院では
100以上の苦しみを背負いながら
自由になるのを待っている
聖霊よ、我らが真の舵取り役よ
苦しみを乗り越えさせてください
天国へと導いてください
そこで我々は自由になるのだから

「嘆きの歌」より
ペーダー・オルセン・フェイディ作
聖ヨルゲン病院の研修医、1835.

写真:ニルス・ダニエルセン・セートレ(1832年–1885年)は、1857年7月1日にプレイエスティフテレンに入院し、この施設が開設されてから12人目の患者でした。彼はここで28年間過ごし、1885年12月13日に53歳で亡くなりました。他の多くの若い入所者と同様に、セートレは患者記録や教会記録に未婚と記されており、フィナース教区の農夫の息子として記載されています。

「日本語訳は日本財団・笹川保健財団により作成されました。」

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